yocoshicaのブログ

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推しグループの初ナゴヤドームライブまでをなぜか毎日カウントダウンしているブログでした

1ヶ月経った

 

 

1ヶ月経ちましたね〜。

 

これの話です。

1ヶ月前にこのリリースが出て、その後5日間の沈黙がありました。

その次のTweetがこれ。

これだけ。

11年間グループを牽引した人がいなくなるという話は、たったこれだけで終わってしまった。

あっけなくて、それが信じられなくて、ほどなくして日常のようなものが再開したけれど、戸惑っているうちに1ヶ月経ってました。

 

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初報のあと、何も語られなかった5日間は、内々に関係各所に説明や謝罪をする時間だったのかな〜と想像しています。そして、やっぱり今回も我々ファンは「関係各所」に入れてもらえなかったんだなあと思っています。

1つのニュースと1つのツイート。あのときから得られた情報はそれだけなので、ファンの目線では今もまだわからないことがたくさんあります。

 

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例えば、明確なアウトのラインはどこだったのか。

もともと遵法意識の高い組織であれば違和感は少なかったのかもしれないけれど、権利侵害や暴力に対して寛容な姿勢を過去何年も見てきました。感覚論ではなくどういう理屈をもって、今回だけに「信頼関係の破綻」が起こり、契約解除の判断がなされたのか、ファンにはわからない。

 

例えば、犯した罪とは別の配慮があったのかどうか。

報道、見えていた言動、それから一昨年末のブログを照らし合わせると、今回の行動はメンタル起因の症状のひとつかもしれないというのは当然出てくる思考だと思います。急遽なされたという判断のなか、あの日の時点で彼の心身が健康であったかどうすら、ファンにはわからない。

 

イベントに数ヶ月間不在がちだった理由も、本来の卒業発表であれば聞けるはずだった言葉も、結局何もわからないままです。憶測でならたくさんのことが言えるし、いくつかの噂も目にしました。でも、はっきりとした事実として公式からファンに伝えられたことはとても少ないです。

 

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笑われそうな話ですが、今まで、「ファミリー」という単語をいくらかは信じていました。今は、家族とか、絆とか、そういう言葉を使って飾られていたあの繋がりは、「所属タレントについてのご報告」と題した400文字程度の文章で終わらせられるほど細いものだったんだなあということを実感しています。

それによって、「家族だから」何も言わなくても察するよ、応援するよ、というムーブを取れなくなってしまったことに困惑もしています。

今日から彼は家族ではありません。そう言われて、たった5日でわかりましたと納得できない程度にはひとりひとりに執着があるし、そういう関係をファミリーと呼ばせてもらっていると思っていました。でもそうじゃなかったんだな。こんな一大事にすら結論のみの伝達に留まるのは信頼ではなく没却だと思っていて、今まで縋ってきた「家族」というメッキを剥がしたその関係は、ただの売り手と買い手でしかないことが自明になってしまった。ファンという存在は途方もなく部外者であると、頭ではわかっていたことだけれど、改めて理解してしまうとやっぱり悲しいことだなあ。

 

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とりわけ芸能の世界の人の口からは、よく「言えないこともある」という言葉が出てきます。でも、個人の人格と未来への期待を売り買いしていた関係性の中で、説明責任という言葉に向き合ったとき、先に挙げたような疑問に答えることはそんなにも難しいことなんだろうか?と1ヶ月考えていました。

最初に頭に浮かんだのは、様々な面で多大な損害を被った被害者であろうし、同情や応援の意思もあるということ。残る人たちの大事な未来を守ることが最優先されているのだろうということ。ただ、それすらもこちらの好意的な憶測にしか過ぎず、伝えられていない裏側を妄想して免責の理由を勝手に創り上げるのは意味の無いことです。

そのあとで、ファンにとって「引き続き応援」することが義務でも何でもないように、それを「よろしくお願い致します」と願う側が、その根拠を示すこともまた強制されることではないことにも思い至りました。

結論として、もとより成立していない関係性のなかで、配慮や責任によって成されるであろう何かを期待する行為は、ひどく厚かましく、そして空虚だったと思っています。

 

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そういうわけなので、いまだに自分は「わからないなあ」という場所から動けていません。

彼の功績や先へと続く未来を信じていた過去を、そして残る人々を今もなお大事に思っているこの感情を、どう評価すればいいのかに結論が出せていないです。

10人のことを、9人のことを、8人のことを、そのときどきで全力で好きでいるつもりでした。そしてわたしの知る限り、彼のことを愛していた人がたくさんいました。彼のファンの、とびぬけて声援に統率が取れているところを面白がっていたし、憧れてもいました。TLに上がる色とりどりの料理の写真を楽しみにしていたし、特典会のお裾分けから、ファンアートから、溢れそうなほどの幸せを受け取っていました。彼に似て愛情深い応援の仕方が大好きでした。その人たちもあの日急に「ファミリー」から放り出されてしまった。わたしが彼女たちと家族でなくなってしまうことを、誰がどうやって決めたんだろう? 突然終わりを迎えた温かな過去を知りながら、何ごとも無かったかのように未来をまた信じ直すのは、とても難しいです。

 

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まるで元通りのような活動が再開した今、続ける人たち、巣立つ人、それぞれの今を見ながら、やっぱりまだ大きい戸惑いをちっとも咀嚼できていません。ただタイムリミットがある以上、一方への悲しみが他方への感謝や惜別を惜しむ理由にならないことも事実です。

向かい風のなかを全力で走ろうとしている人たちを見て、愚かにもそれをまだ追いかけたいと思ってしまっている感情があります。継続を正とするならば、わけのわからない荷物は降ろしてしまった方が賢明だとつよく思います。けれど、捨て去る理由のない大事な記憶を、どうやって置いて行けばいいのかが判らずに困っているのが現状です。

 

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以上は何の嘆願でもなく、まして要求でもない、一連のできごとに対するただの感想文です。ファンとしての遺書になるかもしれないし、通過点の記録になるかもしれない。先のことはわからないですが、この気持ちを整理しないままにこれから迎える大きなイベントに向き合うことが難しいと思ったので、率直な現在地を書き残しておきます。

きっと色々な「事情」があるんだろうなと思います。距離の近い人と、我々のような遥か遠くの視界は、まるで違うものが見えているんだろう。そのうえで、各々の視点を開示することが、大きな亀裂を埋める助けになるかもしれないともぼんやり思っています。

この件に関してどの立場であっても傷つき悲しんだ方々に、礼意と労わりを持っています。言葉を尽くすことはわたしにとって誠意であり抵抗ですが、別の価値観を持つ人の平穏を害したいとは思っていません。関係各所の外側の、身軽で自由な自分の立場に限って言えば、今はまだ、忘れたふりをしないことが過去にもらった幸福への謝意だと思っています。